脱構築の彼方に

フランス現代思想のなかでも、脱構築の思想に触れたとき、僕のなかで何かが開けたような気がした。

デリダの造語であるこの脱構築。僕が知っているこの思想の一側面を簡単に述べると、脱構築とは「ある既成の構造・構築物を破壊し、新たな構造・構築物を生成する、という哲学の営み」のことである。
デリダはこの「手法」を使い、西洋の伝統である二項対立的形而上学の構造を脱構築し、二項対立に終始しない新たな可能性を探った。

既成のものをつねに批判し、その構造を崩すこの作業は、延々と広がる相対性の彼方へと僕らを連れて行ってくれる。

たしかに、構造を崩していく脱構築の営みは、すべてを「相対」の一言で片づけ、結局何も生み出さないという批判があるかもしれない。
しかし、僕が考えるに、デリダの主眼は構造を崩した後の「新たな可能性」を提起する部分にある。

なによりデリダ自身、脱構築という思想そのものさえ脱構築され、新たな意味を獲得していくものだ、と述べている。

僕はこうした脱構築の思想から、身近な出来事から自分が現在いる「世界」というものまで、考える際のヒントを得た。


ところで今回は日仏の交流企画ということだ。

「日本」と「フランス」という国の「差異」があるからこそ、「交流」という企画が意味をなすのだと思う。

でも、「日本」と「フランス」だって、既成の構造でしかない。

何十年、何百年先の未来に、こうした国の隔たりが消えた、新たな可能性を夢想せずにはいられない。

[やぎ]